< 戦前の日本経済と外交方針の関係は?

対米開戦への道のりは? >

84. 日中戦争のなりゆきは?

満州事変以来、中国の反日感情は、抗日運動として中国全域に拡大します。

日本は、中国へのさらなる進出を目論み、1937年7月に、北京郊外の盧溝橋で中国軍と交戦します。軍部と政党との融和を期待され、公家出身の近衛文麿が内閣総理大臣に就任して1ヶ月足らずのことでした。

結局、近衛内閣は、軍部に押されて戦線を拡大し、北京、天津を攻略し、8月には上海から当時の国民政府の首都南京に軍を進めます。このとき、南京で一般市民を2ヶ月にわたり組織的に虐殺した南京大虐殺は、世界中の非難を浴びることになります。国民党政府は四川省の重慶に避難し、日中戦争を継続します。

その頃、満州事変直前に日本軍に殺害された張作霖の息子、張学良が国民党政府の蒋介石を西安に拘束し、当時延安に本拠地をおいていた中国共産党軍との和解を迫り、1937年に再び国共合作が成立します。日本は、蒋介石と対立する汪兆銘を迎え、南京に傀儡政権を樹立して、中国への足場を造ろうとしますが、広大な中国全土を制圧することはできず、戦争は泥沼化します。

近衛内閣は、戦争遂行のために、戦時教育を強化し、挙国一致で天皇のために国難を克服するという宣伝を徹底し、言論統制も進めます。1938年には国民とその資産を政府が無条件で動員できる国家総動員法を可決し、1940年になると、全ての政党を大政翼賛会という組織にまとめ、政治的にも全体主義の基盤造りを行います。日本の政党政治はここに完全に終焉したのでした。

一方、1938年から39年にわたって、日本軍は張鼓峰事件、ノモンハン事件と、2度にわたってソ連軍と紛争をおこし、2回とも敗北しています。これにより、対ソ戦略は見直され、1939年7月に日米通商条約の破棄をアメリカに通告され、日本への経済制裁が強化される中、対米開戦が軍部の中で叫ばれ始めます。

このように、満州事変以降、日本は全体主義のなかで、狂気ともいえる出口の見えない戦争に突入したのでした。

その頃ヨーロッパでは、ドイツとイタリアの勢力拡大が、イギリスやフランスの脅威となっていましたが、満州事変と同様、イギリスはこうした動きをソ連への牽制として、ドイツとは宥和政策をとっていました。

しかし、1939年にドイツがポーランドに侵攻したことから、ついにイギリス、フランスがドイツに戦線を布告します。第二次世界大戦が勃発したのです。

日本はドイツに接近し、1940年に日独伊三国軍事同盟を締結しました。

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